環境問題、というのが良く理解できておりません。
「地球にやさしく」と言いますが、私は「地球にやさしくして貰った」の記憶がないので、どうも、このフレーズでは、モチベーションが働きにくいです。
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ところで、話は変わりますが、
故小松左京先生の「さよならジュピター」(○SF小説、×映画)の中で、宇宙開発に対して、批判的な彼女と、開発前線にいる主人公の会話が出てきます。
この本は「木星太陽化計画」という木星をぶっ壊して太陽にするという、太陽系秩序の破壊を前提とする計画の話から始まります。
このカップルの価値観は当然に対立し、
○「あるべき宇宙をあるべきままに維持すべき」という彼女に対して、
○宇宙という虚無の中にあっては「秩序そのものが価値」であり、それを資源を活用することが、「知性」が宇宙に在る理由である、と主人公は言います。
エントローピーの法則に因れば、どんな秩序であれ、いずれは崩壊します。
ここで言う「秩序」というのは、体育の授業でいう「前にならえ!」のことではなくて、ピラミッドのような構造物のようなものをイメージして下さい。
エントロピーの法則における、「エントロピーが増大する」とは、ミラミッドは、これまで4000年かけてボロボロになっており、そして、何れは砂漠の中に消えてなくなる運命にある、ということを言います。
つまり、間違っても砂漠の中から、ほっとけばピラミッドが自然に再生されることはないということです。
宇宙も長い時間の果てには、全ての物質が原子のレベルで崩壊して、全く何も動かなくなる「熱量死」の状態に至る、と考えられています。
「さよならジュピター」の主人公は、そのことに対して、
『宇宙に手を出しても、出さなくても、どっちも同じ結果になるなら、手を出して楽しんだ方がいいじゃん』と言っている訳です。
(あの世で、小松左京先生に、殴られそうなフレーズですが)
これはなかなか難しい哲学的命題です(が、今日はこれ以上は止めておきます)。
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「地球にやさしくする」という行為は別に構わないと思います。しかし、それによるリターンは何でしょうか。
現在、私が、もっとも理解しやすい有力な理由は、
『自然が持つ自己修復性を超えて自然環境にダメージを与えると、自然からの恩恵が得られなくなってしまうから』
という理由づけです。
つまり、「卵を食べ続けるために、卵を生むニワトリはギリギリ生かしておく」という、「生かさず、殺さず」で、「私達は美味しく卵をいただこう」という、人間様中心の唯我独尊の思想です。
# 「全ての生命は等しく平等である」の理論は、当初から却下しています。
しかし、長期的ビジョンでは、地球という系もいずれは崩壊する訳でして、まあ、この「環境問題の対策」というのは、地球リソースの延命処理、となりますが。
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「環境問題」の解釈は、これで足りると思いますが、ちょっと違和感があります。
それは、人類がこれまで、リソース負担の押し付け合い(水争いとか、漁業水域問題とか)をしてきた過去の歴史と、一致しないのです。
「どこからの誰かが、なんとかしてくれる」という、無責任な体質こそが、人類の一般的属性でした。
ところが、「環境問題」という観念においては責任回避を回避する方向に動いている(様に見える)
この今の状況は、私には少々気持ち悪い、というか正直にいうと「怖い」。
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―― という話を、後輩にしたところ、以下のように教えて貰いました。
江端さんは、「環境問題」を「系(システム)」や「効果」や「利害関係」から把握するから、そういう違和感が発生するのです。
「環境問題」とは、つまるところ「宗教」です。
現段階において、世界でもっとも信者の多く、分かりやすく簡単で、共有しやすく、無条件に「善」であると受けいれられる、「信仰」であると考えて下さい。
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「環境問題 = 宗教」
なるほど、これは分かりやすい。
この話を聞いて、私はようやく「環境問題」が理解できたように思えました。