人身事故だけでなく、最近は天候などが原因で、電車の運行ダイヤが乱れているようです。
安全を確保しながら、線路の上に可能な限りの電車を乗っけて、大量輸送をするのは、確かに難しいと思います。
しかし、
「運行ダイヤは、乱れているのが普通」
という感じになってきてやしないか、心配になってきます。
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「人身事故」、まあ、ぶっちゃけて言えば、「飛び込み自殺」は、自殺者の意思が行っているものではなく、病理から発生する「事故」です。
人間、というか全ての生命は、自分の意思では「死」を選択ができないように作られているそうです。
ということは、「飛び込み自殺」は、その「停止機能」が壊れている状態であると言えます。
そもそも「人間」という壊れ易いシステムであって「絶対に壊れるな」というのは、「一生、病気になるな」と言うのと同じくらい無茶な話です。
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今後、この「飛び込み自殺」が減少していく可能性は、絶望的に低いでしょう。
大体ですね、昭和初期の、日中戦争や満州侵略等、あの絶望的に「お先真っ暗」な時代であって、「自殺者が年間1万人を越えた」といって、大騒ぎしていたのです。
それが、今や、年間3万人。
自殺者数から見れば、今や「真っ暗」より「漆黒の闇」な時代と称呼するのが相応しいのかもしれません。
ともあれ、鉄道会社は、もう「飛び込み自殺」という名の「人身事故」を、投資計画(ホームゲートの設置等)や、鉄道運行管理システムの要件として当初から組み込込んでシステム設計をすべきでしょう。
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加えて、携帯電話を使った乗換案内サービスなどが、この運行管理サービスの劣化を、際立たせる、と。
自分が、人身事故や天候などによって、
「どれだけ時間を損失させられたか」
が一目瞭然。
これらのサービスが、ただでさえダイヤの乱れでイライラしている鉄道利用者達のストレスを、さらに上げていくという、負のループバックが形成されているように思えます。
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という訳で、本日の提言です。
1.インターネットサービスプロバイダへの提言
(1)飛び込み自殺の規模を推測し、さらにリスケジュールを迅速におこなう推論エンジンによる新サービスの実施
2.鉄道会社への提言
(1)飛び込み自殺等に対応した、リアルタイムの運行スケジュール再構築システムの開発
(2)および、利用者へのリスケジュール情報の迅速提供の実施
特に鉄道会社へのお願いなのですが、いい加減に、鉄道会社各社は、運行状態をリアルタイム(タイムラグ10秒程度)でインターネットに開示するサービス(又はインターフェースの開示)を始めて下さい。
クレームの電話の嵐(『なんで、そっちの電車を先に動かすんだ!!』等)を、心配する気持は分かります。
しかし、気持のこもっていない「申し訳ございません」を連発されるよりは、はるかにマシです。
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『お前は、「飛び込み自殺」までも、ビジネスチャンスにするのか』と批判する人もいるかもしれません。
この機会に、はっきりと申し上げます。
私は、「『飛び込み自殺』までもビジネスチャンスとする」エンジニアです。
■六本木界隈をフェラーリで乗りまわす
■リゾートホテルのプールサイドでカウチに寝そべりながらカクテルを飲む
■複数の綺麗な女の子を引きつれて、夜の繁華街を闊歩する。
小説などで出てくる、「成功者」と呼ばれる人が行っている行動のサンプルです。
わからん。
これが「成功の象徴」なのか。
なるほど、これは「人に羨しがられるかもしれない」と言う点において、
または、「その行為に達することが相当に難しい」、という点において、
成功の象徴なのかもしれません。
私が、そのような立場になっていないから、「見えない」だけなのかもしれません。
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私は、
■凄い金持ちにもなっていないし、
■人を従えるような権力者にもなっていないし、
■多分、これからもその可能性もないし、
■能力もないし、
■能力を凌駕する為の努力を払う気力もありません。
従って、成功者から見たビューを、少くとも私はだけは、眺めることができないだろうと思っています。
少々寂しいことだと思っています。
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それに加えて、この様な諦観は、日常生活を、少々楽しくないものにします。
例えば、
■戦争の映画を見ていると、ヒーローとなる人によって、一瞬で殺される兵士の中に、
■トレンディドラマのオフィスラブでは、嫌味を言う上司や、窓際でお荷物になっている脇役に、
■忠臣蔵では、吉良家を守る護衛の下級武士として、最初に切られる端役の中に、
自分自身を見つけることになります。
仮面ライダーで言うところの、谷に落ちていくショッカーは、「あれは、間違いなく私だ」と思い、ショッカーの短い人生に想いを巡らしてしまいます。
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成功しない人間というのは、こういう、つまらないものが見えてしまうという点で、圧倒的に不幸であると思います。
が、まあ、それ以外については、「見えない」ことは、「見えない」が故に、幸せであることもある、と思っています。