歴史小説が面白いと感じるようになったのは、歳のせいだと思います。
歴史小説は、最初から結末が分っているドラマのようなものです。
間違っても「関ヶ原で、東軍の家康が敗走するシーン」とか、「明智光秀が信長の射る矢に打たれて死ぬ」などが、出てくることはなありません。
なにしろ、結論が確定している内容の本は、安心して読めます。
新しい事実や、予測のつかないストーリーに翻弄されることなく、ゆっくり楽しむことができるからです。
このような考え方に至らしめる一つの要素が、「年齢」であり、あとは、「多忙」だとか、「保守的」とか、まあ、いろいろなのだろう、と思っています。
文章や構成、ストーリーに腹を立てながら、全巻読破する、という、今の自分では信じられない本の読み方をしていたのは、若い頃だけです。 そういう読み方をする体力は、もうないのです。
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池宮 彰一郎の「島津奔る」を図書館から借りて読んでいました。 「四十七人の刺客」といえば思い出す方もいるかもしれません。
最初の3ページくらいをパラパラと読んで、借りるかどうかを決めます。なにしろ、楽(ラク)して本が読みたいので、相性の悪い本では疲れるのです。
いい感じだな、と思い、今回は久々のヒットでした。
島津の兵士が、主君の元に駆けつける為、九州から関西まで走破するシーンには、思わず落涙しました。
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どこかで書いたかもしれませんが、ティーン、20代前半の若い頃、本屋の文庫本のコーナーを通過する時に、よく本に呼び止められたものです。
『ちょっと、俺を読んでみろ』と、私に呼びかけるのです。
その場合、私を読んだ本は、大体においてヒット、場合によってはホームラン級の面白さでした。
これらの本は、今の私を構成している一部になっていると思えます。
この手の話、結構同意してくれる人、結構多数なのです。
人と人のテレパシーは分からないけど、本と本のテレパシーはあるように思っていました。
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最近、「本が呼んでくれない」、または「変な本が私を呼ぶ」という現象が多くなったように思えます。
最初の30ページで、図書館返却というような、昔では絶対考えられなかったことも、普通になりました。
まあ、いろいろなことを含めて、『歳を重ねてきたのだ』と、ちょっと感慨にふけったりしています。
「自分が嫌いだった」から始まる、日本人定番の自己憐憫の歌かとも思えるのですが、その歌の中で『巨大な二重否定』を行い、結論不明に陥いらせる、
本当に、素敵な曲です。
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ブスで頭もよくない私の前に現われた完璧な彼女。
曲の前半、美人で、愛想もよく、才能と魅力に溢れた彼女は、コンプレックスの塊である私に『(あなたは)そのままでいいのに』と語りかけ、そして『私には何もない』と謎の言葉を残す。
そして、曲の後半。彼女の死を、報される私。
彼女の『絶望』を全く理解できない私は、今は亡き彼女に、何度も問いかける。
「あなた何に恵まれていたのか」
「私は何に憧れて生きていけば良いのか」と。
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この曲の感想の多くは、もっぱら「亡き彼女に何度も問いかける『私』」の観点から、書かれているようですが、私は「完璧な彼女(シスター)」の観点から書いてみようと思います。
数える程しかないのですが、私のような者でも、人から、
『あなたのような人生を生きてみたい』
『地団駄を踏みたくなる程、羨しい』
と言われたことがあります。
酷い人になると『愛の永久機関』とまで言われたことがあります。
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なんなの、それ?
という感じです。
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自分の持っている自分と、他人の持っている自分との、この宇宙的スケールの認識の乖離。
この事実は、人間の幸・不幸の観念は、その人の立ち位置によって、全く異なるのだということを、私のDNAに書き込みました。
そして、何より『どうやら、人の評価なるものは、あんまり私には関係なさそうだ』ということが分かり、その後の私の、物事を決める基準になったようです。
花粉症の方に、知能の高い人が多いというのは、ご存知の通り、昨年のコペンハーゲンのアレルギー学会で発表で、統計的に証明されています。
現在は、その因果関係の臨床的観点からの裏付けが進められているようです。
社会現象的には、『花粉症でない人の「知能の低さ」による社会的逆差別が懸案される』という声明文で学会が閉会されたということも、結構ショッキングなできごとでした。
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という、都市伝説を、我々で作っていきましょう。
花粉症の皆さん。
イスラム教の圏内では、女性が外出時に「ブルカ」で顔を見えないようにする文化があります。
これは、女性が素顔を晒すことで、男性を惑わせることが良くないという理由で、規定されていると聞いています。
花粉症の方に、美男・美女・美少年・美少女が多いというのは、統計を待つまでもなく、社会的一般的概念として受けいれられている事実ではありますが、私は、これを遺伝子学的観点から考察してみました。
(事実1)
花粉症の方は、くしゃみによる唾液の飛散を防止する為に、顔の半分を手で覆います。
また、マスクにより、顔の隠蔽を行うことになります。
(事実2)
上記の(事実1)は、容姿の大きな要素を占める顔面の露出を妨げることになります。
(検討1)
かかる顔面の露出の防止は、美男・美女・美少年・美少女の大きな特徴である、美男・美女・美少年・美少女であるという事実を隠蔽し、出会いの機会を著しく削減し、生物学的な結びつけをも妨げます。
これは、生物が運命的に持っている命題、「種の保存」に反する行為とも言えます。
他方、これは、美男・美女・美少年・美少女『でない方々』に対して、「種の保存」の機会を拡大させる機会を自然界が提供している、とも言えます。
(検討2)
自然界において、種が適正に進化する為には、
(1)優れた種に支配させるという行為と、
(2)優れない種を健全に存続させる行為、
という矛盾する行為が、同時かつ適切な比率で、実施されなければなりません。
上記は、GA(Generic Algorithm)等の手法では、自明の手法として採用されております。
(結論)
(1)自然界は、花粉症というアレルギー性の病理を遺伝子に組み込んだ。
(2)自然界は、その病理の発症対象を、美男・美女・美少年・美少女に限定することで、種の保存を適正に維持しようと働いた。
以上
嫁さんにプロポーズをした時に、「もったいない」と言われたことを覚えています。
これは、
「私みたいな人に、貴方のような素敵な人は『もったいない』」
という意味だと思っていたのですが、これが誤解であったことが、結婚十何年を遥かに過ぎた、先日判明しました。
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大学の2年生まで、私は思想的には左翼に属する自治寮に属しており、いわゆる男女間の差別問題等についても勉強をさせられていました。
当時は、夫婦別姓論に関する議論が、世の中を席巻していました。
その寮生活において、普通の生活の中での、普通の発言や振舞の中で、自分の意識しない差別が存在することを御互いにチェックしあえる機会を得ることができました。
例えば、次のようなことがありました。
ある種の政治運動をしている女性について、
『女性であるのに、大変立派なことをされている』
という感想を漏らした時、寮の先輩から
『江端。今、お前は、明確な差別発言をしてしたことに気がついているか』
と言われました。
こういう日常生活での批判は、何百冊の本を読んでも得られない貴重なものであり、今でも、この点に関しては、寮生活を送れたことを心から感謝しています。
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で、「もったいない」の話に戻ります。
嫁さんが、「もったいない」と言った発言の趣旨は、
(1)『私は、社会のフロントで闘っている多くの女性を知っている』
(2)『その女性の多くは、男性の意識的、無意識的な女性差別観念によって、その活動を制約されている』
(3)『そういう差別観念を自己認識して、改善していこうとする男性は極めて少ない』
(4)『貴方のような人は、そのようなフロントの女性にこそ供給されるべきである』
(5)『従って、限りある人的資源が「もったいない」』
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要するに、私は、レアメタル(希少金属)のようなものだった、ということです。
まあ、これはこれで、賞賛の一つではあるのですが、なんか「愛」がないなぁ、と思いました。
電車の中での化粧というのは、特に同性からの批判が多いようです。
私は、この「化粧」に関しては、正直、よく分かりません。
人前で着替えをするような、羞恥や嫌悪といったようなものなのでしょうか。
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先日、朝のラッシュ時を少し越えた時間帯、電車に乗っていた時のことです。
車両の連結部近くに座った小柄な若い女性の前に立っていました。
私は、最近の「つけまつげ」というものが、2ミリのチップ状のものを、複数個、まつげに追加していくという態様であることを知りませんでした。
その女性は、手鏡とピンセットを使って、その人工まつげを、自分のまつげに装着していくのですが、揺れている電車の中では、ピンセットの先の目標も定まりません。
時おり、ピンセットの先が空を走り、その黒色チップが眼球に突入しそうになります。
私は、ヒヤヒヤしながら、彼女の作業を盗み見し続けていました。
しかし、彼女のピンセットの作業は、産業用プロセスコンピュータによってコントロールされたアクチュエータのように、黒色チップを、正確にまつげに装着させ続けていました。
彼女の顔が、完成に向って少しずつ遷移していく様子は、さながら製品の製造工程を見学しているようで、終点に到着するまでの間、まるでドキュメンタリー番組を見ているような真剣さで集中することができました。
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このような女性の技を、技術または精神的な観点からドキュメンタリとして作成することを提案します。
題目はこんな感じで良いと思います。
NHKスペシャル「顔面製造の最新技術」
NHKプロフェッショナル、化粧の流儀 「入魂の化粧(けわい)、匠の技」
ヨーロッパのプロジェクトチームが出願した、欧州広域特許の調査報告書(サーチレポート)が届きました。
私はEUの広域発明については、知見がありませんので、黙々と、日本国特許法に準じて、特許要件の精査を行うだけです。
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でもね。
ドイツ語で記載されたサーチレポートを、私にどうしろと。
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何度も繰替えしますが、私の第二言語能力は、「英語」が限界です。
中国語の拒絶理由対応の時にも書きましたが、第三外国語によるレポートは、厳に送付を禁止します。
小学生の頃、放課の時間になると外に追い出されていました。
真夏の炎天下、真冬の小雪の吹雪の中でも例外なしです。
そして、真冬の授業開始前に、マラソンと称して、校庭を10周も走らされた日々は、「小学生」という私の人生の貴重な時代を、決定的に暗黒の時代にしてくれました。
あのマラソンなる阿呆なイベントは、小学生の私を重度の鬱病にし、不必要に風邪などの病理を招いたことは、今となっては明白な事実です。
当時の教師達か、A県の教育委員会か、なんだか分からないけど、そういう組織か法人に、損害賠償請求(民709条)を請求したいものだ、と、ふと、今日思いました。
が、すでに時効が成立していました(20年)。
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それと、今でも、給食を食べ切れない児童を、居残りさせてまで食べさせる意義が、どこにあったのかを、私は知りたいのです。
どなたか、小学校の給食が食べられなくて、栄養不足で死亡した児童がいたら教えて頂けませんか。 私は確信を持って、一人もいないだろう、と断言できます。
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クラス全員が「逆上がり」ができることで、『全員達成!』を標榜し、逆上がりができない子供を追いつめる教育をしていたA県の小学校の教育は、「愚劣」を百万回称呼しても足りないくらいの愚劣教育の極みだと断言します。
戦時中の「隣り組制度」や、日本の隣に位置する独裁国も真っ青の全体主義教育を、当時の保護者はどうして看過できたのでしょうか。
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当時の小学校とは、私には、理不尽の集大成でした。
理不尽であることを学ばせることを目的としているのであれば、その意義は十分に果せていると思います。
A県は、私の出身地です。
私がA県から離れた理由は、A県の教育に起因しています。
いずれお話します。
結婚式を予定されている人の中には、
『既成のメニュー、マニュアル化した結婚式はしないぞ』
『独自性を表現した、個性的な結婚式を企画するぞ』
と思っている方が多いと思います。
(というか、ほとんどの人がそう考えると思う)。
その一方で、
『あれほどの企画力と実行力を有するあの人が、なんで、こんな普通の結婚式を?』
と思われたことはないでしょうか。
色々と理由はあるのですが、結論から言うと、
既存の結婚式のメニューは、『よく出来ているから』です。
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まず、
○思うような会場が取れない。交通の便で問題がある
○スポンサーである両親の言い分を無視して実施することはできない
○将来の伴侶との合意が取れない。または合意に至るまでに時間を要する
○人生最大級の試練の時期であり、メンタル的にも相当不安定である
○企画している時間がない
(結婚前の激務は、ちょっと言葉では言い尽せない。思い出すだけで、睡眠不足の吐き気がよみがえる)
というのは、まだ付帯的理由。
最大の理由は、
○理想の結婚式を実現する「予算」が確保できない。
に付きます。
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比して、既存の結婚式は、
○スタッフの経験値が、恐しく高い
○会場、イベントについて、基本的に考える必要はない
○細部の変更等にも応じてくれる場合が多い
○将来の伴侶とも、妥協しうる点で設定されている
○結婚式後の生活に、思いを及ぼせる余裕がある
そして、
○予算が妥当である
ということですね。
(非日常的金額ではありますが)
加えて言えば、
○独自性を貫いた結婚式は、大抵の場合、理想から相当かけ離れたものになってしまう
という現実もあります。
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既存の結婚式を無条件に肯定するものではないのですが、これが、多くのカップルが、既存結婚式メニューを採用する(採用せざるを得なくなる)理由です。
結婚式というイベントを不合理と考える人は多いと思います。
実際、不合理です。
二度と顔を会わせたくない親戚や、死んだ後に墓石を倒してやると誓った上司まで、招待しなければならないという話に、愕然としたことがあります。
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『結婚式をやらない』と誓った人は、絶対的、圧倒的な意思で、結婚式を実施しては*なりません*。
たとえ、伴侶と離婚することになっても、結婚式を行ってはなりません。
何故か。
仮に「友人だけを集めて、内輪の・・・」と言った瞬間から、この意思が崩壊を開始するからです。
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♂:「友人だけには、本当に招待したい友人だけにしようね」
♀:「でもAさんは、Bさん一緒でないと招待できないわね」
♂:「助手のBさんを呼ぶのに、ゼミの教授を無視することはできないよなあ」
♀:「お世話になったしねえ」
♂:「でも教授だけ、若い人の中に呼んでも・・」
♀:「それに、教授は、『親をないがしろにするな』って普段から、俺たちにうるさかったよわよね」
♂:「じゃ、両親だけは呼ぼうか」
♀:「両親が親戚にしゃべるわよ」
♂:「あ、そうすると、私の子供の結婚式には招待したのに、どうしてあなたのところは私を呼んでくれないの、という話に・・・」
♀:「当然、なるでしょうね」
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これが、私が、結婚式の「負のリンク多重問題」と名づけているものの正体で、「既存の結婚式」から逃げられない大きな理由の一つです。
独身のころ、結婚を控えていた時に、頼みもしないのに、主導権がどうのこうの、最初が肝心だのとのアドバイスしてくる既婚者が、イナゴの佃煮のようにウヨウヨいました。
私は、独身のころから、ずっと不思議でした。
『不幸な夫婦生活をしているんだなぁ。そんなに言うならやめりゃいいのに』でした。
この人たちは、伴侶と『対決』する為に結婚したのか。
それなら、最初から結婚なんてしなくても良いのに。
そうか。この人、馬鹿なんだ。
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既婚者は、結婚を控えている人達や、結婚で悩んでいる人達に、ニッコリ笑って一言。
『結婚って、いいものだよ』
といって、微笑むだけで良いと思っています。
歴史上の尊敬できる人物に「坂本竜馬」か「織田信長」等を挙げた人に対して、どうしても、私は斜に構えてしまうという話は何度かしました。
では、「斜に構えない」ですむ回答はどういうものだろう、と考えてみました。
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『歴史上、尊敬できる人物は誰ですか』
『最近でも良いですか。70年前くらいの人なのですが』
『どうぞ』
『ベン・ブルース・ブレイクニー弁護士です』
『? どういう方なのですか』
『ブレークニー弁護士は、・・・』
自分だけの尊敬する歴史上の人物を持っている、というだけで、なんか知的な感じがしませんか。
# しないか。
知識をひけらかすという感じではなく、なんかこんなこと言うのは照れくさいけど、というシャイな感じで、少しだけ喋るのが良いかと思います。
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昔、三国志の登場人物や時代背景をベラベラベラベラと、こっちがウンザリしている顔を見せて、溜息をついてみせても、続けたやがった奴がいました。
カルトなゲーマであることが一目瞭然です。
偏見加えていいますが、こういう「会話のキャッチボール・レス」のしゃべり方をする男性には、彼女がいないことが多いように思えます。
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ブレークニー弁護士の勇気ある弁護(当時では自殺行為に近い爆弾発言だったろう)を知って、私は弁護士になるのを断念しました。
# 嘘です。弁護士はスコープにすら入っていませんでした。
「サンダーバード」とは、ご存知の通り、1965年にイギリスで放映された人形劇による1時間枠の特撮テレビ番組です。
世界各地で発生した事故や災害で絶体絶命の危機に瀕した人々を、国際救助隊と名乗る秘密組織がスーパーメカを駆使して救助する活躍を描く、21世紀(2026年)を設定としたSF番組です。
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私が大学生であった頃、自衛隊の海外派遣(派兵?)に対して、国を二分する議論が行われていました。
勿論、憲法第9条の拡大解釈を認め得るかどうか、という点でした。
「人命救助に限定する行為のみを明文化して、海外派遣すれば問題ないと思うけど。『国産サンダーバード構想』だな」
と言った私に、法学を専攻していた私の友人は、ちょっと上を向いて溜息をついた後で、私に向って言いました。
彼女:「あのね。国家をスポンサーにする軍隊が、人命救助のみに限定して行動する訳ないでしょう。第一、国益に資さないでしょう」
私:「いや、国際貢献という観点で、国際的な評価が・・・」
彼女:「じゃあね。古今東西、国家が他の国家に派兵する場合、その理念は、例外なく「サンダーバード」を掲げた事実は理解している」
私:「・・・え?」
彼女:「「旧ソ連のアフガン侵攻、ソマリアの米軍介入、古くはベトナム戦争だって、『人道支援、人命救助』を掲げていたし、帝国主義か共産主義やらの脅威排除とやらは、広義の「国際救助隊」と言えるでしょう」
私:「そ、そりゃ、そうだけど」
彼女:「旧日本帝国が、人様の国の中に別の国(満州国)を作ったのも、邦人保護を理由とした「国際救助」が理由だったのよ」
私:「・・・・(沈黙)」
彼女:「あの『サンダーバード』という番組が、本当に凄いことは、『国家に依存しない国際救助隊』をコンセプトとしている点にあると思うな。
つまり、『金持ちの道楽による国際救助』という、前代未聞の概念こそが、真に評価すべき点よ」
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ぐうの音も出ませんでした。