(Continuation from yesterday)
総じて、その経済効果は、相当なものだと思います。
Above all, I think that the economic effectiveness is enormous.
個性や想像力なんかなくったって、ただ漫然と生きているだけで ―― 極論すればば、ただ死んでいないというだけで ―― 人間は、経済を回す巨大なエンジンです。
Even if we don't have any individuality and creativity and live a life aimlessly , we are enormous engines to make the economy move
もちろん、これは、「幸せ」かどうかは別の話です。
Of course, it is a different story whether happiness or not.
例えば、爆破テロや巨大災害があっても、そして、老老介護であっても、その不幸をベースに、金は流れる続けるのですから。
For example, terrorist explosions, huge disaster, and care of the aged, they can stimulate the economy.
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まあ、こう書いてみても、自分自身、今一つ、「深い納得感が得られない浅いロジック」のようにも感じます。
I wrote the above, however, I, myself think that "this is a fast-food logic and have problems with them".
この問題は、この程度の思考シミュレーションで出てくるようなものではないことは分かっているのですが、
I know well that it is impossible to resolve them with this light thinking processes.
少なくとも、『全ての命には等しく価値があるのです』という宗教の教義を必要としない、考え方の一つくらいにはなるのかな、と思っています。
However, at least, I think that it might be an idea doesn't need the religion of doctrine of "all of life is worth equally".
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当初の話から、酷く離れてしまいました。
Far away from the original topic.
私が申し上げたいことは、
What I want to say,
「スポーツ観戦」は、スポーツというエンターテーメントを創る人だけでは成立しないコンテンツであるということです。
"Watching sports" is a content that is not be established by only creators of the sport contents.
創られたものは、消費されてこそ、「価値」が発生するのです。
Any creation generates the "value" when it is consumed.
「スポーツ観戦」を楽しむ能力というのは、創作物に価値を与え、「スポーツ観戦」を楽しむ人は、それ自体が経済を回すエンジンである、ということです。
The ability to enjoy "watching sports" is to give the value to the creation, and everyone who who enjoy the "sports" is an engine turning the economy.
老化によって、自分の思うことが思うようにできなくなっても、自らが何も創れなくなったとしても、
Even if I cannot do anything what I want by aging, and I become no longer making anything,
―― コンテンツを楽しむ能力さえ残っていれば、私には「誰かの役に立つ」という「価値」がある
If I have even the ability to enjoy the content, I have a "value" of "useful for someone".
と言えると思うのです。
ええ、誰がなんと言おうとも。
I believe that, even if everybody denies this my logic.
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少くとも、今のところ、世界を動かしていない(1mmくらいは動いていて欲しいが)、100本を超える(と後輩が調べていた)、私の特許出願よりは、
For now, I think that the ability is more valuable than more than one hundred patent applications of mine(my junior said),
―― 「価値がある」
と思えるんです。