最近、私は、音声通話機能のない(つまり、SIMカードを差していない状態)の、中古のスマホを探しています。
Recently, I am looking for a used smart-phone that has no voice communication function(No SIM card).
「スマホを使いたい」 ―― などという気持ちは1mmもないのですが、「スマホを使えないとヤバいことになるかもしれない」と思い出してきたからです。
I don't have an intention of "I want to put smart-phone into place", but begin to think "I will get into trouble if I remain undone it".
若い人のスマホの日本語入力の速度は、全く侮れないレベルにきています。
For younger, the speed of Japanese input method of smart-phone becomes really redoubtable.
私のパソコンでの入力に引けを取らないか、下手をすると、それより速いかもしれません。
This speed might be rather faster than that of input for my PC.
加えて、スマホを使っている人の人口が、圧倒的であるというこです。
In addition, the population of smart-phone users is overwhelming now.
私がさらに老化して、音声によるコミュニケーションが困難になってきた時に、スマホが最後の手段になる可能性が高い、と考えて始めてきたからです。
When I become older and oral communications becomes more difficult, I think that a smart-phone might be a last method.
これは、介護と養育の両方に携わっている、私の立ち位置だからこそ、見えてきたものかもしれません。
This thought might come to me because I commit both care and nurture.
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私の仮説は「スマホが、50音ボードの代りになる」というものです。
My hypothesis is "smart-phone becomes substitute for a board of the 50-characters".
逆に言えば、スマホの入力インターフェースも使い熟せないような人間は、取り扱いの優先度が低くなる(雑になる)可能性があるのではないか、とも。
Contrary, people might deal with people who cannot use a interface of smart-phone
なぜそう思えるのか。
プッシュホンのサービスを使えない人を、FAXを使えない人を、パソコンを使えない人を、電子メールを使えない人を、Webブラウザのサービスを使えない人を、私は、きちんと ―― 例えば、別のアナログ手段を提示するなどして ―― サポートしてきただろうか。
Have I taken care of people who could not use push-phone service, FAX, PC, e-mail, and web-browser, and shown alternative methods, for example analog, printing and other services ?
「しなかった」と思う。
I am afraid that I have not done.
電子メールを使えない人を、コミュニケーションの外側に置き去りにしてきたのではないか、と問われれば、確かにその通りだと思います。
If someone points out that I left some people who cannot use e-mail our of communication, it cannot be helped that I say "YES".
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しかし、これを「酷い」と思えるかというと、そうでもないと思います。
However, I don't think that it is "severe".
多分、「紙」や「鉛筆」や「電話」が登場した時も、それを生活に取り込めない人を見捨てて、文明は発達したきたのだと思うからです。
Perhaps abandoning those who can not take it into daily life even when "paper", "pencil" or "telephone" has appeared, I believe that civilization has developed.
技術の発展や、文明のパラダイムシフトは、必ず「楽」な方に流れますが、その「楽」に至る為に、ある一定の「苦労」が伴うことは仕方がないことです。
The development of technology and the paradigm shift of civilization always flows to "easy", however, it is unavoidable that a certain amount of "hardship" should be needed in order to reach that "easy".
その「苦労」を「苦労」と感じられないパワーとスピードが、「若さ」というのであって、私も、かつては、そっちの側にいたのです。
"Youth" cannot feel as "hardship" against the power and speed, and I used to be on that side once.
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いずれにしても、人生は帳尻があうようにできています。
Anyway, life is designed in order to match each other.
見捨てた者は、見捨てられる。
Those who have abandoned are abandoned.
それでも、見捨てられることは避けられないとしても、見捨てられ方の程度を選ぶことはできる、と思っています。
Still, even though it is inevitable to be abandoned, I think we can choose the extent of being abandoned.
で、冒頭の、「スマホの日本語入力」を履修しなければならない、に戻る訳です。
Therefore, at the beginning, I have to go back to "Japanese input of smart-phone".