以前、浜松で開催された国際学会に参加した時、アフリカ出身の研究者の発表を聴講しました。
Previously, I attended a lecture whose speaker came from a small country in Africa.
確か、母国にあるマイノリティな言語を、英語などの他の言語に翻訳するエンジンを作成する、という内容の発表だったと思います。
As I recall, he was trying to make an translation software between their mother mother tongue and English, e.t.c.
一番の問題は、「語彙数の非対称性」なのだそうです。
He said that the most important problem is the asymmetry postulate of amount of vocabulary.
要するに、そのマイノリティの言語の辞書は、英語の辞書の1/10しか言語が記載されていない、とのことでした。
In short, the vocabularies of the minority language dictionary is just one tenth of those of English
発表後に、質問してみました。
I asked him a question after the lecture.
江端:「あなたの母国語の語彙が、英語の1/10しかないというのは ―― 大変失礼な質問とは存じますが
Ebata:"I am interested to hear about the less numbers of vocabulary in your country. I don't mean to be rude, but I want know the reason. Now I have two ideas.
(1)あなたの国の言語表現力が低い、
(1)Representational power of your native language
あるいは、
or
(2)あなたの国の言語は、組み合わせることによって、バラエティのある言語を表現できる
(2)Your native language can express a variety of meaning using complex combination of the vocabulary.
のいずれか、ということでしょうか?」
研究者の方:「いえ、そういうことではなく『単に、電子辞書の整備が遅れている』ということです」
Speaker:"Both are incorrect. The reason is simple, "a development of electronic dictionary is delayed"
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『そりゃそうだよなー』と思いました。
"Quite so", I think.
人間が生きているところであれば、当然、そこに発生する概念は、概ね同じになるはずです。
Wherever human beings live, I think, the concept coming into being, should be almost same naturally.
極端な例ですが、喜怒哀楽の、「怒」だけがすっぽり抜けている、という言語というものは、ちょっと想起するのが難しいです。
For an extreme example, I cannot bring a language without a concept of "anger" to mind.
しかし、「怒」だけがすっぽり抜けている国があったら、そこで生まれ育った人は、結構幸せなのではないかな ―― などと考えていました。
On the other hand, I also think that people might be happy in the country where they live.
特に、私のように「アンガーコントロール」が苦手な人間にとっては。
Especially, for a person like me who is not good at "anger control"